2009年11月10日 (火)

坂本龍馬でまちおこし「立会川商店街」

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7月に発症した「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」の経過チェックのため病院のある京浜急行「立会川駅」で約2ヶ月ぶりに下車した。結果はようやく完治の診断を受ける事ができたが、えらい駅前が賑やかだ。まず驚いたのは駅前の児童公園に見た事が無い「坂本龍馬」の銅像が立っているではないか。また駅前の商店街にもあちらこちらに龍馬の街を示す垂れ幕が架かる。この辺りは「旧東海道」を歩いた際にも通過したが、坂本龍馬ゆかりの街とは知らなかった。
NHK大河ドラマ「天地人」も来週の日曜日22日で最終回を迎えるようだが、来年の大河ドラマ「龍馬伝」の主人公「坂本龍馬」が若き日、近くにあった土佐藩下屋敷に住み、浜川砲台で警備にあたった事にちなみ、町おこしをしようとする狙いのようだ。

Photo_2 京浜急行「立会川駅」は品川駅から5駅、急行電車も停車する。

Photo_32004年に高知市から寄贈された龍馬像を駅前の児童公園に先月17日設置したとの事。まだ周辺の整備は途中で案内板もまだ手作りでPC印刷した紙を画鋲で固定し、菊の花も植木鉢を並べている。

Photo_4 アーケードにも大きな垂れ幕が架かる。

Photo_5 大きな垂れ幕が架かる「立会川西商店街」入口にも「お帰りなさい『龍馬』さんと書かれた大きな看板がかかる。

Photo_6 商店街だけで通用する1割お得な「プレミアム商品券」も発売されているようだ。

Photo_7お蕎麦屋さんのシャッターにも「龍馬のまちへ ようこそ!」のキャッチが追加されている。

長引く不況を吹き飛ばす満塁ホームランになることを祈りたい。

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2009年11月 7日 (土)

紅花の産地で発展した「桶川宿」

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「桶川宿」の南の木戸跡の碑が立ち、「桶川宿」に入った事を示す。「桶川宿」は「上尾宿」から3.7km、通算で40.9kmとほぼ10里となる。よって旅人の最初の宿場町として参勤交代時の大名の定宿として、また紅花の産地としても大いに栄えたようだ。

Photo_61 街道沿いに古い旧家が多く残っている。写真は旅籠だった武村旅館。

Photo_62 数十年前にタイムスリップしたような魚屋さん。

Photo_63江戸時代には旅籠であったようだ。現在はお茶屋さん。

Photo_64 紅花も扱っていたと言う穀物問屋。明治中頃の蔵造りだと言う。Photo_65

観光案内所「中山道宿場館」に到着したのは16時半と前回の蕨宿と同じで既に閉館していた。やはり大宮での休憩が長すぎた。

Photo_66 5時前で、案内所も閉館しておりこれ以上の「桶川宿」の探索は断念して帰途についた。また次回、「桶川宿」から再スタートとしよう。

万歩計は44,587歩を示す。途中、大宮でのタイムロスはあるものの歩数の割りに遅すぎる。どうも7月の蜂窩織炎以降、足の調子が戻らない。右足首・股関節の痛みから、最近は左ひざの痛みが取れない。そのためかペースが上がらず、コースガイドペースで歩くのがやっとと言う有様。情けないね。

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天領であった「上尾宿」から桶川へ。

Photo_59 当時幕府の直轄領・天領であった「上尾宿」までは「大宮宿」から4.9km、「日本橋」からは36.9kmの距離にある。10里弱の距離で最初の宿は「上尾宿」か次の「桶川宿」が多かったようだ。

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このあたりまで来ると人、車ともさすがに途絶えてくる。県道164号線を進む。

Photo_53 上尾宿発祥の地だあり、総鎮守の「氷川鍬神社」。その名の通り「鍬」を祀り、五穀を司る農業神を祭神としている。

Photo_54 神社の周辺に当時の本陣や脇本陣が立ち並んでいたようだ。紹介する案内板が立つ。

Photo_55 西日を浴びて、上尾駅前を進む。

Photo_56 少し進んで右に曲がると、薄幸な遊女お玉の墓がある「遍照院」。

Photo_57 「上尾宿」の北の入口辺りに案内板が立つ。

Photo_58 西日が傾く中、先を急ぐ。桶川市にようやく入る。

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宿場町の名残りが見えぬ「大宮宿」から上尾へ。

Photo_41 右手に「氷川神社一の鳥居」。古中山道は参道を通っていたが、その後、江戸初期1628年に西寄りに街道は整備され、宿場が発展したようだ。

1_2 「武蔵国一宮」と書かれた石柱。「大宮」は氷川神社の門前町として栄え、大宮と言う地名も、神社の雅名としての大宮に由来するとか。

Photo_42 その先の中山道沿いに古い言い伝えの残る「塩地蔵」の立派な案内石がある。
この後、大宮駅近くで昼食をとり、歩き始めると偶然、会社の同僚とバッタリ出くわす。ちょうど頼みがあり、一時間ほどコーヒブレイク。

Photo_43 この商店街付近が宿場の中心であると思われるが、残念なことに紹介する案内板一つ無い。今は同じ「さいたま市」であっても、旧「浦和市」と「大宮市」の性格の違いかな?
4番目の宿場「大宮宿」までは「浦和宿」から4.9km、累計で29kmの距離。

Photo_44人と車でごった返す大宮を後に北に向かう。まずJR東北線のガード下を抜ける。

Photo_45  道路際に「大山 御嶽山道標」がひっそりと立つ。良く見ると「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれている。大山は相模大山の事で当時は大山詣が盛んであったようだ。御嶽山は青梅の御岳山、よのは近くの与野、引又は現在の志木、そしてかわ越はもちろん川越を示す道しるべのようだ。

Photo_46続いて東北・上越新幹線、ニューシャトルのガードをくぐり、歩を進める。

Photo_52 宮原付近にある「加茂神社」は「木曽街道六十九次」の上尾宿に描かれている加茂之社の事だ。

Photo_47 地元では「お諏訪さま」の名で親しまれる「南方神社」では「菊祭り」が開かれていた。

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蕨を出て、何キロ歩いたか?さすが「さいたま市」は広い。ようやく「上尾市」に入る。

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政令指定都市さいたま市の「浦和宿」から大宮に向かう。

Photo_28 「浦和宿」の入口には「中山道浦和宿」と刻まれた石標が立つ。
江戸・日本橋から数えて3番目の宿場「浦和宿」までは6里6町(約24.2km)。今や浦和は政令都市・さいたま市を構成する大都市に大発展だ。

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Photo_31 駅前近くの商店街では車止めやベンチ、敷石とストリートファニチャに浦和宿の名を刻み「浦和宿」の知名度アップに努めているが、周囲の煌びやかさから見ると何故か目立たない。

Photo_32東海道・藤枝宿でもサッカーの町としてゴルフボールのモニュメントを記憶しているが、やはりサッカーの町・浦和はあちらこちらで「浦和レッズ」の応援旗が。

Photo_33 平安時代、空海によって開かれたと伝えられる「玉蔵院」。

Photo_34 商店街の外れ、仲町公園に「本陣跡」の碑が「明治天皇行在所跡」の碑と並んである。

Photo_35 「慈恵稲荷」の前には「二七の市の碑」が立つ。
しかし、この車邪魔だが駐車違反では?

Photo_36 JRを跨ぎ、歩を進める。北浦和駅・与野と県道164号線を進む。歩道は広く歩き易い。

Photo_37 「廓信寺」の石標の横にサツマイモの女王「紅赤」発祥の地の案内板があった。

Photo_38 見事なケヤキ並木に入る。当時はケヤキでは無く、やはり松並木だろうな?

Photo_39 ケヤキ並木を抜けると、「さいたま新都心」の高層ビル群がそびえる。

Photo_40 再びケヤキ並木を進むと大宮はもうすぐだ。

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七五三で賑わう「調(つき)神社」

Photo_20 浦和宿に入る手前に鬱蒼とした森に囲まれ「調(つき)神社」はある。平安時代の古社で、朝廷に届ける武蔵国の調(みつぎ)物がここに集められたそうだ。その際、運搬の妨げになると門や鳥居は取り払われたとか。

Photo_21 Photo_22 今日は11月7日。「七五三参り」に訪れる家族連れで大賑わいだ。
我が家も11月1日に二人目の孫が誕生した。今度は女の子です。と言うことは3年後には長男が5歳、長女が3歳となる。可愛い着物を着せて「七五三参り」かな。

Photo_23 神社名の「ツキ」から。「ツキ」に恵まれる神社として信仰され、「ツキ」を「月」にかけて、狛犬ではなく「狛ウサギ」がいる神社としても有名で、門柱上にも「狛ウサギ」の姿が。

Photo_24 手水舎にも可愛い「狛ウサギ」の姿がある。

Photo_25 奥の池の噴水も「狛ウサギ」の口から水が勢い良く吹き出している。
来年の干支は寅だが、再来年は兎だ。また多くの初詣客で賑わうことであろう。

Photo_26 境内林は市の天然記念物に指定され、ケヤキを中心に樹齢数百年にもなる木々で生い茂っている。

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秋晴れの「蕨宿」から浦和に向かう。

Photo 「蕨宿」に到着したのは8時半、先週日没になった「蕨宿」の探索からスタートした。
江戸時代は宿場の周りには用水と防備を兼ねた構え掘が巡っていたようだ。出入りのためには「あげ橋」が設けられていた。

1 旧宿場内はカラー舗装され、当時を偲ばせるような建物や松の植樹、案内板の設置など町おこしに力を入れる蕨市の姿勢が伺える。

Photo_2中山道宿場六十九次のプレートが埋め込まれている。 Photo_3 Photo_4 Photo_5

10代続くと言う煎餅の「萬寿屋」。

Photo_6歴史民俗資料館は朝早すぎて、又も見れず。

Photo_7 隣接する本陣跡。

Photo_8 煎餅屋の角から続く「地蔵の小径」を進むと突き当たりは真言宗智山派の古刹、金亀山極楽寺三学院。

Photo_9 子育て地蔵、目に味噌を塗ると効験があると言う目疾地蔵、六地蔵が並ぶ。

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スケールの大きい堂々とした寺院だ。

Photo_12 市役所通りには「和楽備(わらび)神社。

Photo_13神社の横には「蕨城址公園」がある。戦国時代には城があったようだ。

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国道17号を渡り、旧中山道を進むと「東京外環状自動車道」との交差の手前に日本橋から五里を示す「辻の一里塚跡」ぼ碑が公園の片隅にある。

Photo_15 Photo_16 「東京外環状道路」をくぐり、歩を進め、国道17号線を渡り、なだらかな坂道を上る。このあたりは「焼米坂」と呼ばれる。昔、このあたりには焼米を売る茶店があったことが由来だとか。

Photo_18 七五三で賑わう「調(つき)神社」を過ぎれば「浦和宿」はもうすぐだ。(「調神社」の紹介は別掲)

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2009年11月 1日 (日)

2番目の宿場「蕨宿」へ急ぐ。

Photo_31 荒川を渡り、堤防沿いに右折すると「水神社」がある。その名の通り、水神を祀り、水害や航海安全を祈る神社であろうが川岸に住む人々の氏神様のようになっているそうだ。

Photo_32 Photo_33 近くに戸田渡船場跡の碑がひっそりと立っている。
荒川には1875年まで橋が無く、戸田の渡しが江戸を出入りするには不可欠だったようだ。

Photo_34 寄り道、迷い道、回り道か?のんびりし過ぎで戸田橋を渡る頃には周囲は薄暗くなって来た。国道17号線に戻り、急ぎ足でひらすら北上する。2kmほど進み、GSの手前に蕨宿入口の碑が立っていた。

Photo_35 ここから右に入ると蕨宿になるが、入口には大木戸門をイメージした木製のモニュメントが立っていた。

「わらび」と言う地名は平安時代の書物からあるようだが地名の由来は「藁火」説(藁を燃やす)と「蕨」説(植物の蕨)があるようだ。

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マンホールの蓋にも中山道蕨宿が描かれている。

Photo_38 蕨宿ほぼ中央にある「歴史民族資料館」に到着したのは閉館時間の4時30分。周囲はすっかり暗くなり、中を見学することも出来なかった。

Photo_39 資料館の隣には本陣跡がある。
「板橋宿」から8.9km、日本橋から18.7kmの蕨宿到着が4時半では話にならない。次回また蕨宿からスタートとする。Photo_40

本陣跡から歩いて約15分、JR京浜東北線蕨駅に到着した。まだ5時前だと言うのにもう真っ暗。これから冬に向かい、日はますます短くなる。先へ進むには朝の時間をもっと有効に使わねばならない。反省の多い一日でした。
しかし万歩計は38942歩を示している。どこをそんなに歩いたのかな!?

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「板橋宿」から荒川を越える。

Photo_13 巣鴨地蔵通商店街、庚申塚商栄会、滝野川銀座通と商店街を次々と進むとJR埼京線板橋駅に出る。
板橋駅前に近藤勇墓碑がある。幕末幕府方新撰組局長近藤勇は1868年新政府軍に捕らえられ、板橋宿のはずれ板橋刑場で処刑されたそうだ。その後近隣の当地に旧同士永倉新八によって葬られたと言う。
近藤勇の墓所は諸説あるそうだ。東海道を歩いた際にも愛知県岡崎市法蔵寺の境内で首塚を見た。その時のブログは下記。
近藤勇 首塚

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JRの踏切を越えると板橋宿に入る。板橋宿は平尾宿、仲宿、上宿からなり、当時の旅人も当宿から出入りする人が多く、街道一賑わっていたとか。現在は商店街が続く。

Photo_16 クラシックな銭湯の裏に平尾宿の脇本陣跡の碑を発見。

Photo_17 その先のいたばし観光センターに立ち寄った。ボランティアの人々が宿場の案内や地図の無料配布など親切に対応してくれる。

Photo_18 Photo_19 歩を進め、仲宿に入る。板橋宿本陣跡は碑が立つのみだ。
日本橋から板橋宿までは9.8kmの道のりだ。

Photo_20 石神井川に架かる板橋だ。日本橋からの距離が表示され子供たちが熱心に学習していた。
この板橋が地名の発祥となったようだ。

Photo_21石神井川は川幅は狭いが、桜の木が両側から迫り、春は素晴らしい景観となることであろう。

Photo_22  板橋を渡り、上宿に入ると「縁切榎」と書かれた小さな神社があった。縁を切りたい人や逆に悪縁を絶って良縁を求める人から信仰を集めていたと言う。

Photo_23 Photo_24 その先、環状7号線を越え、再び国道17号線と合流し進む。

Photo_25 1 地下鉄、志村坂上駅の手前に日本橋から数えて三番目の一里塚「志村一里塚」がある。(二番目の平尾一里塚は板橋宿の入口付近にあったようだが碑も立っていない。)
ほぼ昔のままに道路の東西に一対の一里塚が保存されている。

Photo_26 Photo_27 その先を旧道は左斜めに進む。中山道と富士大山道に分岐点には道標や庚申塔が残されている。中山道最初の難所と言われた「清水坂」の急坂を下る。

Photo_28 再び国道に合流し、環状8号線を越えると荒川はもう近い。

Photo_29 新河岸川を渡り、荒川に架かる戸田橋に出る。
当時は橋は無く、戸田の渡しが人や物資の運搬を行っていた。

Photo_30 日も傾いてきた。風も強くなり、天気予報どおり曇ってきた。
荒川を越えると埼玉県戸田市に入る。

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地域に密着「とげぬき地蔵尊 高岩寺」

Photo_6 巣鴨地蔵通商店街のほぼ中ほどにとげぬき地蔵で有名な高岩寺(こうがんじ)がある。開山は1596年と古いが明治24年に現在の場所に移転されたとか。正式には曹洞宗萬頂山高岩寺で本尊は延命地蔵尊(通称、とげぬき地蔵)。

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多くの参拝客で賑わっていたが、特に「洗い観音」の回りには長蛇の列が。
この「洗い観音」は自分の治したい部分と同じ場所を洗ったり濡れタオルで拭くとご利益があると言う。

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時節柄、ちょうど巣鴨菊まつりが開かれていて多くの人々で賑わっていた。

巣鴨地蔵商店街は別名「おばあちゃんの原宿」と呼ばれるほど賑わっている。昔は良く見た光景だが、懐かしい昭和の香りのする街だ。

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