膳所から大津宿へ [2007/3/24 Sat.]
学生時代の仲間5人が京三条大橋のゴールに同行してくれることになった。お嬢さん一人も加え総勢7名だ。5時起床し、始発新幹線で京都へ、そして石山駅に8時40分集合した。あいにくの天候で、今にも雨が落ちてきそうな曇天の中出発した。3月に入っての冷え込みで桜はまだ蕾で、桜花爛漫のゴールは果たせないのは残念だ。
膳所は関ヶ原合戦後、徳川家が膳所城を築き、本多家の居城となり発展したとか。町内の通りはやはり鍵型に何度も折れ曲がる。石山を出て、程なく城下町の南の入口にあたる勢多総門跡の碑があった。
町内には神社が多い。篠津神社の表門は膳所城の城門を移設し、重要文化財に指定されている。
旧東海道の景観を守るため、歯医者さんもこのような造りだ。
通りには所々往時を偲ばせるような建物が軒を連ねる。
膳所神社。同様に膳所城の城門を移設し、表門としている。やはり重要文化財に指定されている。正門の横にくぐり戸があるのが特徴だ。
和田神社。境内には関ヶ原で捕らえた石田三成を一時縛り付けたと言われる大銀杏がある。
膳所城下町の南の出入口にあたる北惣門跡。
程なく義仲寺に到着。当地近くで壮絶な最期を遂げた木曽義仲や、義仲を偲んで何度も訪れたと言われる芭蕉の墓があり、所狭しと句碑が立ち並ぶ質素なたたずまいだ。
左は芭蕉の代表的な俳句の一つ「古池や蛙とびこむ水の音」の句碑。右は芭蕉の弟子が詠んだと言われる「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑。
左は木曽義仲の墓。右は松尾芭蕉の墓。大坂で亡くなった後、遺言で木曽殿の横に葬られたとか。義仲の愛妾巴御前の巴塚もある。
境内の静かなたたずまい。文科省の指定史跡となっている。
京阪電車の踏切を渡るといよいよ大津宿に入る。所々に往時を偲ばせる建物が立ち並ぶが、他には何も残っていない。
道端に「此附近露國皇太子殿下遭難之地」と刻まれた石碑が立っていた。明治24年の警備の警官がロシアの皇太子を斬り付けた大津事件の碑だ。右はかつて大津宿の中心であったと言われる札の辻の碑。ここからまた1号線に合流だ。
この辺りは京阪電車浜大津線が路面を走っている。
いよいよ京への最後の上り、逢坂山に向かう。
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